よくある質問
今まで多くの皆様から大元 宗忠神社にお寄せいただいたご質問やご相談のなかから、主なものをQ&Aにまとめました。
神社について
古来、鈴には魔除けの霊力があると言われ、それが転じて神事の際に鈴を鳴らすようになったようです。巫女が手に持って鳴らす「神楽鈴」、その音には神様をお招きする役割があったと言われています。神前で鳴らす鈴もこの神楽鈴に由来すると言われ、神様に拝礼するにあたってその清らかな音色で神様をお招きし、これから祈願を申し上げるという合図のような役割を果たしています。
五色は、青(緑)・黄・赤・白・黒(紫)のことで古代中国の「五行説(ごぎょうせつ)」に由来します。五行説は、木・火・土・金・水の五つの要素により万物が組成され、自然現象や人事現象(人間関係)の全てを解釈し説明するものです。木・火・土・金・水は各方位に対応し、さらに各方位を守る四神(高松塚古墳の壁画にも描かれている四方の守護神)とその色に対応し、
木=東 =青龍 =青(緑)
火=南 =朱雀 =赤
土=中央(天位)=黄
金=西 =白虎 =白
水=北 =玄武 =黒(紫)
となります。
「神紋」とは神社ごとに定められた紋章の事です。神社では一般的に象徴として社頭に掲げられることが多くなっています。家紋の出現とほぼ同じ頃になるといわれ、鎌倉時代には家紋が神紋として取り入れられたり、逆に神紋が家紋になる例も出てきます。
全国に広く用いられ代表とされるのが「巴(ともえ)紋」です。数だけを見ると最も多いのが「稲紋」になります。
これは小さな神社まで含めると稲荷社が多いためといわれています。神紋には他にも花をあしらった紋から文字や天体を神紋にしたもの、鳥紋や雲紋と非常に多種多様です。大元 宗忠神社では、ご祭神の家紋である「木瓜(もっこう)紋」が神紋となっています。
御守りは、ご祈念をつとめた御札を小さくした物を御守り袋にいれ,神様のご加護をいただき災厄から身を防ぎ、また諸祈願の支えになるように常に身につけられるようにしたものです。
神棚にお祀りしている御札は空間全体(家等)を守り、御守りは主に個人を守る役割があります。もともと陰陽師や寺院が作製し授与していたものを、神社もこれにならい授与したのが始まりだと伝えられています。平安中期頃には、紙や木の板でできた小さな御札に紐を通し首からぶらさげ常に携帯できるようにした「懸守り(かけまもり)」と呼ばれる御守りがあったようです。
御守りをお護りするような生き方、交通安全守りであればその御守りをお護りするような運転を心がけましょう。
注連縄は神聖な空間との境を示すために張り巡らす縄のことで、神棚の前面に張ったり、地鎮祭等で四隅に立てた竹を囲うように張った縄であることで知られます。この「注連」はもともと中国で死霊が入り込まないように、水を “注” いで清め “連” ね張った縄のことで、これがあてられたと考えられています。
古来、神社ではいろいろな占いが行われており、おみくじ(御神籤)はその一種です。おみくじには、総体的な運勢(大吉や吉など)と個々の運の判断(仕事運、金運…)が書かれてあります。大吉であっても浮かれたりせず精進するようにだとか、凶でも用心して誠実にしていれば神様のご加護がある、といった人生の大切な導きなのです。いたずらに喜んだり失望することではなく、その導きを守り心がけることが大切です。そうしたことから、持ち帰り時々読み返す人もあります。
また、おみくじの内容や運勢を神様に託すという意味で境内の樹木に結ぶ姿もよく見られます。大元 宗忠神社ではおみくじの結び所を設けていますので、こちらに結ばれるとよろしいでしょう。
ご参拝、ご祈念について
神職がお申し出の方に代って御神前において、その方のお名前、願い事を祈り願う神事です。
古来、その年に収穫された稲をお供えしていたことから「御初穂料」、玉串や榊の代わりに「御玉串料」「御榊料」と書くのが一般的です。「御神前」「御供」もよく使われます。「上」や「奉納」または「奉献」と書かれる場合もあります。
この他、神式の葬儀のお供えでは、「御霊前」「玉串料」「御榊料」という表書きが用いられます。大元 宗忠神社の場合は、ご祈念やその他の物も含めて「御供」と記入すればよろしいでしょう
初宮詣は、一般的に生後30日前後に家族揃って神社にお参りし、無事に子供が産まれたことに感謝し、その子がすくすくと丈夫に育つことをお願いするとても尊い神事です。お子様とお母様の体調に十分留意して、ご家族お揃いで大元 宗忠神社にお参りください。
妊娠や出産に関する行事では、妊娠五ヶ月目の戌(いぬ)の日に「帯祝い」があります。犬が多産安産なのにあやかるためと一般的に言われています。
また、出産後7日目の「お七夜」には子供の命名書を作り、神棚に捧げて、家族の一員としてお守りしていただくようお願いします。
それから生後百日前後には「お食い初め」といい、お祝いの食事をお子様に食べさせます。これは一生食べ物に不自由しないという思いが込められています。
榊の枝に紙垂(しで 【注連縄等に垂れている雷の形のような白い紙】)をつけて神前に奉るものを「玉串」といいます。
語源には様々な説がありますが、本居宣長の説によると手向串(たむけぐし)の略と見ているそうです。古くは鏡・玉・木綿・麻などの貴重な品々をささげるため常緑樹の枝に乗せていたのが、次第に木綿・麻になり、そして紙に代わり、現代の形になったのではないかと考えられています。
正式参拝や特別ご祈念のときは、玉串を奉ってお参りしていただきます。
手順は以下になります。
- まず右手で榊の根元を上から持ち、左手で榊の中程を下から支え、胸より高く(目通りの位置で)持ちます。
- 御神前に進み、一礼する。
- 玉串を立て、左手を右手に添えて、両手で榊の根元を持つ。
- 右手で榊の中程を下から支え、根元を時計回りに180度回転させる。
- 案(あん:神事に使用する机)の上にお供えする。
- その後「二拝二拍手一拝」となります。
「榊」は暖地の山林に自生するツバキ科の常緑樹です。字を見てもわかるとおり、榊は「神」と「木」を合わせた字ですから、神様に関わり深い木ということになります。
神様の聖域と人間の俗社会との「堺」を示すための木、つまり「堺木(さかいき)」が転じたという説や、「栄木(さかき)」あるいは神聖な木を意味する「賢木(さかき)」が転じたとする説があります。
元来、榊とは固有の植物名ではなかったようで、のちに特定の木を指して榊と呼ぶようになったようです。地方によっては榊が生育しない場所があるので、同じ常緑樹である杉・樫(かし)・樅(もみ)などが代わりに使っています。
「賽銭」とはお礼参りの際に「報賽(ほうさい)」として神仏に奉った金銭のことをいわれていました。それが転じて、参拝の時に奉る「幣帛(へいはく 【神様に奉献する物】)」の代わりとして金銭を意味するようになりました。つまり賽銭とは供え物の一種であるといえます。
貨幣が流通する以前は、参拝者は金銭に当たるものとして、お米をお供えしたり、洗米を紙に包んで奉っていました。現在も金銭の代わりにお米をお供えする人や、賽銭箱に賽銭を投げる際、紙に包む人がいますが、その名残といえます。
厄年とは、肉体的にも精神的にも調子を崩しやすい年齢として古来から忌み慎むべきとされてきました。
厄年とする年齢は数え年で、男性は25歳・42歳・61歳とされ、女性は19歳・33歳・37歳とされています。それぞれの前後を「前厄(まえやく)」「後厄(あとやく)」といい、同じく忌み慎むべき年齢とされています。また、男子の42歳、女子の33歳は「大厄(たいやく)」といい、特に注意する必要があります。
貴方様が一年を無事に過ごせるようお祈りいたします。詳しくは大元 宗忠神社社務所までお問い合わせください。
当神社は「神饌(御洗米(おせんまい)・昆布。神様にお供えしたお下がりです有り難くお召し上がりください)」をお下げします。
また、他の神社等でみられる「直会(なおらい)」とは、神様にお供えしたお神酒やご神饌を祭典終了後に下げて、祭典に関わった人達で共に頂くことを言います。つまり、神様の御霊のこもったものを頂くことになります。
語源は、「直り会い」を縮めたもので、この場合の「直る」とは、祭典中の特別な状態から、平常の状態に戻ることを意味します。このように直会は、祭典の締め括りとして、大切な意義を有することなのです。いずれも有り難くお召し上がりください。
季節の行事について
七五三詣は一般的に11月15日に、3歳の男女・5歳の男子・7歳の女子が家族で神社にお参りをし、これまで無事に成長してきたことに感謝し、これからも健やかに育ち、立派な成人となることを祈念する神事です。
この行事は、古くより通過儀式として行われ、3歳の男女が頭髪を伸ばし始める「髪置(かみおき)」、5歳の男子が初めて袴を着ける「袴着(はかまぎ)」、7歳の女子が子供用の紐を大人用の帯に変える「帯解(おびとき)」を起源としています。
また、11月15日という日取りについては、天和元年(1681年)に徳川五代将軍綱吉公の子・徳松の髪置祝いがこの日に行われたことから、と伝えられています。
大元 宗忠神社ではこの時期、毎年多くのお参りがあり、神社拝殿をバックにしての特設の写真撮影コーナーなどをご用意しています。特に土・日曜日といった週末は大変混み合いますので、11月のお参りはお時間に余裕を持ってお参りください。
大祓は年二回、一般的に6月30日と12月31日に行われます。6月の大祓を「夏越(なごし)の祓」と呼び、無病息災を願いつつ、茅や藁を束ねた「茅の輪くぐり」という神事もあります。
「水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶというなり」という句は有名です。12月の大祓は「年越の祓」と言われ、新たな年を迎えるために心身を清めるための祓いです。人は知らず知らずのうちに罪や穢を犯し、それが積み積もってくると考えられています。
また、ご祭神の宗忠大神様は「祓いは神道の首教なり」と教えられ、とりわけ「祓い」に徹せられた神様でありました。罪穢を御神徳に依り祓い除いて身も心も清々しく、新たな気持ちでスタートすることを祈願する節目の神事です。「形代(かたしろ)」「人形(ひとがた)」と呼ばれる紙に、自分の名前や年齢を記入し、身体の各所を撫で、息を吹きかけ、心身の穢を形代に移し、初穂料を添えて大元 宗忠神社社務所までお持ちください。
大元 宗忠神社の「大祓夏まつり」では「茅の輪くぐり」という神事があります。
鳥居に茅の輪(茅 【イネ科】)を結びつけ、その輪をくぐり抜けることで、罪穢を取り除き、心身ともに清々しくなるよう祈念するものです。この「茅の輪くぐり」の起源は、『備後風土記』によりますと、神代の昔に素盞嗚尊が、南海の方にお出かけしたとき、一夜の宿を「蘇民将来(そみんしょうらい)」と「巨且将来(こたんしょうらい)」という兄弟に求められました。
弟の巨且将来は裕福であるにもかかわらず、それを拒みましたが、兄は貧しいながらも、粟がらの座を造ったり、粟飯を出すなりして、精一杯のおもてなしをしました。それから年月が経ち、素盞嗚尊は再び蘇民将来の家を訪れ、「もし天下に悪疫が流行したら、”ちがや” で輪を作り、これを腰に着けていれば災いを免れるであろう」と教えました。
間もなく、天下に悪疫が流行し、人々は次々に病に倒れ、多くの人が亡くなりましたが、蘇民将来の家だけは無事であったといわれています。これ以来、人々は悪疫の流行る時には「蘇民将来の子孫」と言って、茅輪を家に掛けると災難を免れることができると言い伝えられています。
つまり最初は「茅の輪」も腰に着ける程度の小さいものでしたが、時代を経るにつれて大きくなり、今では鳥居などに取り付けるようなりました。なお、鳥居の起源については、天照大御神の「岩戸隠れ」の際、鶏を止まり木にとまらせて鳴かせたところ、それによって天照大御神が岩戸から出てこられたことから、以後、神前には鶏の止まり木を作るようになり、それが鳥居になったという説があります。そこから「通り入る」「鶏居」という言葉が転化したものともいわれます。